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浅野総一郎の生誕地

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ページID:0000285掲載日:2016年2月29日更新印刷用ページを表示する

浅野総一郎の生誕地

浅野総一郎の生誕地現在の氷見市薮田(当時の越中国氷見郡薮田村)で生まれた浅野総一郎(あさの そういちろう、1848(嘉永元)年生から1930(昭和5)年没)は、明治・大正時代を代表する実業家で、「京浜工業地帯を創った男」、「日本のセメント王」などと呼ばれています。

浅野総一郎は、薮田村の医家に生まれ、6歳で縁続きの町医者に養子に出されたものの15歳のときに実家に戻り、いくつもの事業を始めました。
いずれの事業も凶作や幕末の混乱などの影響で失敗し、多くの借金を抱え、23歳のときに逃げるようにして東京へ出ました。
東京では砂糖冷水売りから始め、竹皮商、薪炭商、石炭商等を経て、横浜瓦斯局が廃棄するコークス、コールタールの払下げを受け、コークスは燃料として、またコールタールはコレラの流行で不足していた消毒用の石灰酸として売り込むことに成功しました。
また、石炭取引先の抄紙会社の渋沢栄一の知遇を得、その助力により、1883(明治16)年、官営の深川セメント工場を借り受け(翌年払下げ)、浅野工場(浅野セメントの前身)を設立しました。渋沢や同じ越中出身の安田善次郎などの協力を得て、経営は順調に進み、良質なセメントを大量に生産しました。
総一郎は、この他、主要事業として磐城炭坑(1883(明治16)年創立)と東洋汽船(1896(明治29)年創立)も経営するとともに、様々な事業の設立に出資し、役員として経営に関与しました。
その中で、最も力を入れた事業が東京湾の埋立事業で、埋立地に臨海の工業地帯を造成して、大型船が横付けできる港を造り、また鉄道ともつなぐ大構想は世間の人を驚かせました。ここでも渋沢や安田の協力を得、1912(明治45)年、鶴見川崎地先に150万坪の埋立計画の認可を神奈川県に出願し、15年かけて完成させ、これにより京浜工業地帯の礎を築きました。
富山県内では、1919(大正8)年に庄川水力電気を設立し、水力発電ダムとして当時東洋一の規模といわれた小牧ダムを造りました。
浅野財閥と呼ばれるまで猛烈に事業を行った総一郎は、1930(昭和5)年、83歳で没しました。残された一族は、安田財閥の支援を受けて、総一郎の残した借財の整理を行い、その結果、1941(昭和16)年の「浅野関係会社名簿」によると一族関係会社数は98となっています。
氷見市内では、2012(平成24)年に設立された特定非営利活動法人九転十起交流会が、浅野翁資料展示館「帰望郷館(きぼうごうかん)」を整備するなど、総一郎の偉大な業績を探求・伝承するとともに、その事業等にゆかりのある都市等との交流活動を展開しています。

 

浅野総一郎生誕の地への行き方:
 加越能バス 「薮田」下車 徒歩すぐ

 

 

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